2020年12月15日
白洲次郎,ぽん多

 

皆さまどうもこんばんは。コロナ渦中ではありますが最低限のマナーを守りつつ、コロナ前と全く変わらない生活と遊びをしております・・・

今夜もです🙏

 

ゴマ
早く海外に行きたいね

 

だね・・

 

さて…  今夜はとてもとても暇な夜なので、僕と不思議な「縁」がある洋食屋さんのお話しをしてみたいと思いますので、どうぞ宜しくお願いします(´・ω・`)

ゴマ
長いから絶対読まない方がいいよ!

 

時間のある方のみお付き合いくださいませ・・・

思い出の洋食屋さん

 

地元

人は誰しも歳を重ねると、幼き日の思い出や場所を懐かしむ「望郷の念」という感情が生まれるのではないだろうか。

例えば僕の場合、小さい頃に友達と探検した森、よく遊びに行った駄菓子屋や公園。
恋人と2人で見つけた特別な場所やお店など、もう二度と戻る事のできない出会いや時間を懐かしみ、ノスタルジックに駆られ今でもそういった思い出の場所へ1人フラッと訪れる事がある。

特に僕の場合は少年期に引っ越しを何度かしていて、ハッキリとした「地元意識」を持たずに大人になった分、もしかしたら普通の人よりそういった思いが強いのかもしれない。

そんな幼い日の思い出の一つ。

僕の両親は当時としては割と珍しかったと思うのだが、実にグルメな人達だった。週末になると美味しいと言われる店へあちこちと連れて行ってもらった記憶がある。その店の料理を食べる為だけに旅行をするという事もしばしばあった程だ。

現在の僕の家族がそうであるように、当時の僕の家族も「家族」という単位をとても大切にしていて、あらゆる物事が家族という単位を優先に行われていた。
つまり簡単に言えば非常に仲が良い家族だったので外食をする時も、もちろん6人そろって食べに行っていた。

しかし年に数回程度、なぜか父と2人で昼ご飯を食べに行く事があったのだ。
おそらく土曜日で学校が午前中に終わり、普通なら家で食べるところ、父と昼食を食べに出かけていたのだ。

その時、母や姉達がどうしていたのかは覚えていないが、父は何かしら「男同士」というものを意識して僕の事を連れ出していたのではないだろうか。

父は会社の経営者という立場であったが、とても気さくな人で2人でいても会話に困る事もなかったし、一緒にいる時の沈黙も心地良く感じれる優しいタイプの父親だったから、2人で行く食事も特にこの時期特有の「嫌だ、恥ずかしい」などの感情は一切なかったように思う。

例えばこのブログでも書いている「永福町系大勝軒巡り」も元はと言えば父の馴染みの杉並の大勝軒によく連れて行ってもらった事から、僕の永福町系大勝軒好きはきている。

 

 

大概は近所のラーメン屋、少し車で足を伸ばして横浜中華街、あとはどこか知らない街の寿司屋であったり洋食屋が多かったように思う。

その洋食屋に出会ったのは小学生の低学年だったろうか…

小学生・・ の頃に数回。
中学生の頃にも数回は行っただろうか。

ぽん多本家,扉

重々しい扉を開け店内に入ると、父は店主と二言三言言葉を交わしそれから席に着く。
メニューを選んだ記憶がないから予約をして行っていたのだろうか。
また帰り際に店主と談笑している姿を見て、僕は父の古い友人か知り合いなのだろうと思った覚えがある。

シチューを食べた…  トンカツを食べた。父とシェアして食べた、、位の曖昧な記憶。
子供の頃は特にラーメンやステーキなどの分かりやすい料理が好きだったから、少し堅苦しい形式ばったようなこの洋食屋の印象は極めて低かった。

きっと父の知り合いだから行くお店。
どこにでもある街角の、ただの洋食屋さんという感想だった。

だから車で連れられて行ったその店がどこにあるのかも興味がなかったし、そもそも少年時代の僕にとって日比谷公園より先は馴染みが薄く、馬喰横山に親戚が数人いるものの、日本橋より先になると「上野動物園がある方向?」ぐらいの、土地勘がまるでないエリアだった。

その後、父が亡くなり母が亡くなるとその洋食屋の存在も当たり前のように僕の記憶からなくなり、当然そのお店がどこにあったかなんて考える事もなく、一体あのお店は父にとってどんな存在だったのかを考えるには僕はあまりにも幼なすぎたのかもしれない。

 

白洲次郎という男

 

「憧れの人」や「好きな人」がいると人生は輝き、より豊かなものになる。

僕はいつでもそんな人を探している。そうする事で目的や目標ができ、自らを輝かす事ができるのだ。

ゴマ
全然輝いてないよ

 

ですよね・・

 

 

僕にとっての「憧れの人」の一人は白洲次郎だ。

もう数10年も前から、本やTVでも見る機会が多いので知ってる人は知ってると思うが・・

白洲次郎という男を簡単に紹介すると、彼は青年期に(1919年)、世界有数の名門大学ケンブリッジへ留学し、堪能な英語力(オックスブリッジアクセント)と、英国紳士としての精神を身につけ帰国する。

そして白洲次郎と言えば、太平洋戦争敗戦後、GHQ占領下において吉田茂の側近として活躍した人物として知られている。

敗戦国としては圧倒的に立場の弱かった日本だが(今もか)、白洲はとにかくプリンシプルを貫き、マッカーサーを相手にしてもハッキリと「NO」が言える人物だったという。

ゴマ
白洲次郎と言えば「プリンシプル(正論・信念・信条)」の男だからね

 

「我々は戦争には負けたが奴隷になったのではない」と、無理な要求をしてくるGHQを突っぱねている。GHQから本国アメリカへの報告では「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめたのは有名な話。

おそらく当時、もし僕がNegotiator(交渉人)であったなら・・・

that’s light☝️

 

i think so!

 

oh yes! exacty☝

 

おそらく僕の事だ、そんなこんなでGHQにさぞかし可愛がられていただろう💧

ゴマ
プリンシプルのかけらもないからね☝

 

ですね・・

 

快楽主義者って言うんですかね・・

 

 

次郎はその後も交渉の第一線に立ち日本国憲法の成立にも深く関わり、サンフランシスコ平和条約締結にも尽力している。
戦後処理・戦後復興にも力を注ぎ大きな功績を残した事から、周囲は政界入りを強く希望していたそうだか、次郎はそれらをあっさり断っている。

その後、田舎の自宅(東京町田市「武相荘」)で自給自足の生活をしたり、軽井沢ゴルフクラブの理事長なども務め余生を送った。

白洲次郎の抜群のファッションセンスと無類の車好き

 

白洲次郎

次郎は常に一流の物を身につけ、英国流の洗練された身のこなしで常にスーツを愛用していたが、こんなラフショットでさえ男前という・・
なんでも日本で最初にジーンズを履いたとか履いてないとか…

そして次郎と言えば、無類の車好きとしても知られている。

ケンブリッジ留学時には、現在でも世界最高級車と名高いベントレーブガッティをサーキット場に持ち込みレース三昧だったとか。

次郎の車好きは生涯変わる事なく、80歳になるまで愛車のポルシェを乗り回し、軽井沢ゴルフクラブにも颯爽と姿を現していたという。

白洲次郎,ポルシェ

晩年こよなく愛していた車が、この1968年式のポルシェ911S(2Lエンジンだったが2.4Lエンジンに換装)だったが、この車にもまた次郎らしいエピソードがある。

現在でこそ世界的企業に上り詰めたトヨタ自動車だが、当時のトヨタは「初代ソアラ」がようやく200kmの壁を超えたという時代。

次郎は自分でもソアラを購入し、その出来に関して直接社長に手紙を書いたという。
「回転半径が大きすぎる」「パワステはもっと強力に」などなど…。自らも車の改造も手がけてきた彼らしいアドバイスだ。

そして当時の開発担当者に「かけがえのない車を目指しなさい」と、参考の為に自らの愛車ポルシェ911Sをトヨタに寄贈、あげてしまったのだ。

そのアドバイスを受けて完成した「二代目ソアラ」だったが、次郎は既に83歳で亡くなってしまい、残念ながら完成を目にする事ができなかった。開発に間に合わなかった担当者は無念で涙を流したとか。

その後、当時のトヨタの社長と息子(現在の社長)、そして次郎の妻である正子は、二代目ソアラに乗り墓参りに行ったという。

ポルシェ乗り・ソアラ好きが白洲次郎に惹かれる理由がここにある。
いや、そうでなくても男なら誰でもこんな男に憧れるのではないだろうか。

酒・ゴルフ・車を覚え、追求していく先に今でも耳にする「白洲次郎」という男の名前。

 

出会いと別れ・・

 

僕が最初に出会ったのは父と母、そして姉達だ。とても幸せな時間だったと今なら分かる。

それからというものの入学・卒業・引っ越しを繰り返し、様々な人との出会いと別れがあり、
そうした貴重な一期一会から僕という人格が形成されてきた。

ただ僕の場合は生まれて以来、いい出会いは沢山あったはずなのに非常に精神状態が未熟で、相手の気持ちにたって物を考えるという事をしないまま大人になってしまい、沢山の人を傷つけ両親の期待にも全く応える事ができなかった。

今だに過去を振り返るとため息をつく事がある。

人生は時折、苦い教訓を与えてくれるが気づいた時にはもうその事を活かす機会がなくなっている場合が多い。

僕はある時、辛い失恋をした。

失ったらどれほど自分が傷つき、どれほど自分が絶望するか分かっていたのに、自分から彼女に別れを告げたのだ。

この別れは当然彼女の事を傷つけたが、同時に僕自身も長い間苦しむ事になる。

実際に両者の思いを比較する事は不可能だが、別れを告げた側の方が後に辛い思いをするというのは大抵、別れを告げた側に勇気がなかったー「臆病」である事が多いのではないだろうか。

言葉にするとこれほど簡単な表現になってしまうが、彼女に別れを告げてから僕はずっと「真っ暗な長いトンネル」の中にいた。

そんな時、ほんのわずかに立ち直るきっかけを与えてくれたのが白洲次郎だった。

信念・信条を貫き通した白洲次郎の生き方はまさに輝いていた。

彼は晩年、自らの一次的な資料を全て処分してまった為、不明な点も多く実際の評価は別れる事もあるが・・

出会いがあり別れがあり、また出会いがある。

僕は何かに誘われるままに次郎の足跡を追っていた。
別に彼のようにかっこ良く生きたいと思っていた訳ではなく、少しでも光の差す方向に足を進めなければ、濃い暗闇の中で進む方向さえ分からなくなりそうだった。

まず行ったのは「ケンブリッジ大学」
(ここはアイザックニュートンスティーブンホーキングチャールズダーウィンジャレドダイアモンドなどなど通った大学だから絶対に行きたかった)

当然、町田の「無愛荘(終の棲家)にも行った。

神戸出身の次郎が通ったとされる料亭「松迺屋(まつのや)」にも行った(現在、北野の店は閉店)

下諏訪温泉の旅館「みなとや」に泊まって、女将に当時の次郎の様子を聞いてみたりもした…

次郎が銀座に出れば必ず行ったという「きよ田(鮨屋)」にも、ある社長の紹介で連れて行ってもらった(現在は四代目に代変わりした?)

銀座は次郎の馴染みが多く、BAR「ボルドー」で次郎がよく飲んでいたという席で飲ませてもらったりもした(現在は閉店)、そば所の「よし田」にも行ってみた。

今でいう「聖地巡礼」に近いが、10年程前は・・

わずか10年程前なのに、今ほどあらゆる情報がネット上に溢れていた訳ではなく、書籍などを使って地道に旅をしていた。

白洲次郎が愛し、贔屓にしていたそれらの店は「一流店」や「老舗」と呼ばれる事が多く、代々受け継がれてきた伝統を守り、そのどれもがプリンシプルの男に相応しい店が多いと感じられた。

東京を拠点としていた次郎が通った店は数多くあり、そのどれもが予約を必要とする店が多く、僕はある雑誌の記事から見つけた、次郎とその妻正子が通ったとされる上野のある一軒の店に予約を入れた。

最初に僕が白洲次郎を追いこの店に予約をいれた時、電話越しに店主とわずかなやり取りをしただけなのに、その声色に僕の頭は猛烈にフル回転を始めた。

 

 

どこかで聞いた事のある声・・
過去にこの声に触れた事がある・・

 

 

「もしや…」と思った瞬間、内臓が込み上げてくるような嗚咽に似た感覚と一緒に目頭が熱くなった。そっくりと抜け落ちていた幼き日の父との記憶が走馬灯の様に甦ってきたのだ。

確実にそうとは言い切れなかった。

コインパーキングに車を停め、店の前に立ってみても、本当に父と行った洋食屋なのか自信がなかった。

もっとゴチャゴチャとした街並みにその店はあった気がするが…  アメ横からこんなにそばの店だったのだろうか?

白洲次郎の足跡を追っていたはずなのに、この時ばかりは違った胸の高鳴りで、その重厚な扉を開き入店した。

「いらっしゃいませ」

 

上野の老舗洋食屋「ぽん多本家」

 

ぽん多本家,扉

・住所 台東区上野3-23-3
・電話 03-3831-2351
定休日 月曜

※未就学児の入店は不可

店の正面にはコインパーキングがあり、僕はいつもここに車を停めている。駅から近い割に、昼・夜問わずあまり満車にならない場所だから凄く便利だ。

今日は古くからの友人でありアニメ会社の社長を経営しているハッシー(何度かこのblgにも出演)と近くで用事があり、どっちみちならと僕が待ち合わせにこの店を指定した。

歴代の総理や財界人に常連が多いという明治創業の老舗洋食屋は、コロナ禍中であってもランチのピークはさすがに予約が埋まっていて、かなり遅めのランチになってしまった。

さらに残念な事に「おいしいタンシチューをご馳走してやる」と言っていたのにこの日は既に品切れ。店主がその日の食材を厳選し納得した素材しか仕入れない為、時々こんな事もあるが、お品書きにあがる料理はどれも絶品だ。

友人はポークソテーと野菜サラダ、僕はとんかつ(ぽん多ではカツレツと言う)。
揚げ物がいくつかできるらしく牡蠣フライと車海老のフライを2人前注文した。
無性にビールが飲みたい気分だったが、これから打ち合わせに向かう為、赤ら顔で出席する訳にはいかない。

ぽん多本家,箸

注文した後に「ぽん多は上野のとんかつ御三家の一つに数えられているみたいだよ」と伝えると、ハッシーはひどく残念そうな顔をしていた。
注文前に言わなかった事も、注文後に言った事に対しても悪気はなかったが、「じゃあシェアしてたべようか」と言ったら、顔がパッと明るくなり「いいの?」とひどく嬉しそうな顔に変わった。

とても中年同士の会話とは信じてもらえないだろうが、誓って言うが僕とハッシーはそういう関係ではない。

ぽん多本家,カツレツ

例えシェアするといっても食べながら分け合うなんて事はせず、最初に取り分ける。
これはコロナ前だろがコロナ中だろうがコロナ後だろうが僕はそうしたい。

なぜなら僕とハッシーはそういう関係ではないからだ

ちなみに2切れずつ交換したのだがポークソテーの方が明らかに肉厚の為こちらとしては少し引け目を感じたが、ハッシーが何も言わなかったから僕も黙っていた。

いい大人が、決して肉の大きさで揉める訳にはいかない…   

ぽん多本家,ヒレカツ

断面がほのかな桃色で、咀嚼する度に肉の旨みと甘みが交差し、ラードの香りが鼻から抜けていく。

「ぽん多」のカツレツを一言で表現すると上品なとんかつだ。下ごしらえの段階でロースの脂身を全て取り除き、芯の部分(赤身)だけを調理している為、脂身がついたとんかつを想像して食べると少しアッサリしすぎていると感じるかもしれない。

ただ取り除いた脂身を数時間煮詰め、その脂(ラード)で揚げている為、なんとも言えないコクと風味が生み出されている。
これだけでも相当に手間のかかる作業だが、創業時より脈々と受け継がれてきた「ぽん多」のスタイルだそうだ。

値段設定は少し割高なのかもしれないが、いかに手間暇をかけて客に満足してもらえる料理を提供するという仕事を知れば、むしろ安いとさえ思う。

 

ぽん多本家,香の物
香の物、赤だしも絶品

生産性や効率を極限まで追求して、コストカットに集中してきた昨今の外食産業とは次元を異にしている。

他にも随所にそういった「譲れない仕事」が感じれる店だ。

ぽん多本家,楊枝

創業当時より変わらない味・・

きっと白洲次郎もこの味を食べ、父もこの味を好み、僕は今この店に通っている。

全てが目まぐるしく変わっていく世の中で、変わらないものがあるというのは何て素晴らしい事なのだろうか。

出会いがあり別れがある
別れがあり出会いがある

「縁」というものが偶然から生まれるものなのか、必然的に決められた出会いなのかは僕には分からないが、僕はまたここに戻ってきた。

今ならなぜ父が、この店に僕を連れてきてくれてきてくれていたのか分かる気がする。

 

最初に「ぽん多」に一人でやってきた時、四代目店主の島田さんは僕をカウンターに通してくれた。カツレツとタンシチューを頼んだのを今でも忘れない。

父が好きでシェアしていた料理だ。

寡黙に料理をする姿、それを見つめていた。

お会計で立ち上がると四代目がわざわざ僕のところに来てくれた。会計を済ました後に一言「お父様はお元気ですか?」

お悔やみの言葉を頂き店を後にした。

車に乗り込んだ後、しばらくぼーっと父の事を考えていた。数十年前にこの世から存在が消えたはずの人のぬくもりが、この店には残っていたのだ。

きっとまた巡り合う事ができるだろう

あれ以来、何度この店に通っただろうか。
僕としては「今は亡き人達への供養」という意味合いも兼ねて来ているのだが、もちろんこんな湿っぽい話しを人にした事はない。

ハッシーも呑気に「こんな旨い牡蠣フライ食べた事ないよ!」と喜んでくれていた。

・・・

 

美食家が言うのだから間違いない・・

「今度は夕刻に来て熱燗でもひっかけながらたべようか?」なんて軽口を叩いたら、ハッシーは早速手帳を取り出して年末の予定を突き合わせ始めた。

・・・

 

何度も繰り返すが、ハッシーはjust friendであってspecial friendではない

じゃあ今度は、タンシチューとアワビのバター焼きでも…、あれアワビはこの時期じゃないか? まぁ「ぽん多」は何食べても旨いからさ・・・

 

また一つ、年末の楽しみが増えたかな

 

白洲次郎の愛した名店「ぽん多本家」と、僕の不思議な「縁」

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白洲次郎の愛した名店「ぽん多本家」と、僕の不思議な「縁」” への2件のフィードバック

  1. ゴマさんお久しぶりです🙆‍♂️
    以前、山王会でお世話になりました佐川です。
    まさか白洲次郎がでてくるとはビックリでした。自分も無愛荘に行きましたよ。
    きよ田は高すぎて無理ww
    あそこはまだ紹介制なんですかねぇ🤔

    ほっこりしました。
    またみんな集まれるといいですね✌️

  2. なつかしい気持ちになった。御徒町の辺りはtohoシネマがリニューアルしてすげー変わったよ。10年前からタイムスリップしたら迷うかもね。

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