ただ今、私が所有している豊洲のマンションの一室に4日ほど滞在しています。
こちらはゲストルームなのですが、年に2回くらいはこうしてこの部屋を訪れ、基本何も考えずに「ぼ〜っと」しています。
持ち込むのはわずかな着替えと10冊程の小説だけ。ところ構わず読みふける。
そんな事なら自宅でも良さそうなものですが、家にいれば休んでいてもどうしたって貧乏性の私は「あれやこれや」と逆算的思考に囚われてしまうので、時には日常から少し離れた場所で「ぼ〜っと」する事も必要なのです。
豊洲は基本的に観光スポットが少ないので、巣籠もりを決め込む私にはもってこい。
マンション地下から直通の〝ららぽーと〟にも一切行かず、部屋から「ぼ〜っと」夕日を眺めて時間を過ごす。
夕日とは不思議なもので、一人で見ていても十分綺麗だが、誰と見るかによってその「感動」は何倍にも何十倍にもなる。
一日に何度も湯船につかり、小説を読みながらうたた寝を繰り返す。
昼間っから酒を飲み…… なんなら朝から風呂で一杯やって好きな時にまた眠る。 こうした自堕落な「時」を過ごしていると、起きた時間が朝の5:00なのか夕方の5:00なのか分からなくなってしまうが、そんな事は気にせずまた小説を読み始め… 眠くなったらまた眠る。
現実の中に非現実が混ざり合うような陶酔感は、どこか村上作品を読んでる時のそれと良く似ていて、そのどこか夢の中にいるような曖昧な世界観は私にとって心地よく、自分があたかも物語の一登場人物であるかのような錯覚を覚える。
何かとても大切な事があったような気がするが思い出せない。合理性や効率などを全く必要としないそれら主人公達に自らを重ね合わせ読み進めていると、本当に自分が大切にしている物は、実は本当はどうでもいい事なのだと気づかされる。
村上春樹の作品の多くは、最終的にオチに当たる部分がなく「それで?」という気分にさせられるのだが、あの肩すかしも嫌いではない。
人生全般に言える事だが、物足りないくらいがちょうどいい。
10分ほど歩いて月島まで行くと、メイン通りは驚くほどひと気がなかったが、目的の「岸田屋」だけは10人ほど列を作っていた。
どうしようか迷っていると、その列に並ぶ一組のカップルに目が釘付けになった。
その女性の方が以前好きだった人にあまりにも良く似ていて、奪われた目をそらすより先に彼氏の方と目が合ってしまい少し気まずい思いをした。
踵を返し…… いや、顔馴染みの女将さんにだけは挨拶していこうか……。
が、迷ったがそれもやめた。
名前もよく分からない店に入り、もち明太子でビールを流しながら、さっき見かけた女性の事を考えていた。
目・はな筋・色白の肌、何よりあの雰囲気。 彼女と別人というのは分かるが、もしかすると直近の先祖が近いところで繋がっているのかもしれないと思った。
無性にあの女性に「出身地」を聞いてみたくなった。 まだ岸田屋にいるだろうか。
……が、そもそも私はその好きだった彼女と、先祖の話しや出自について詳しく話した記憶がなかったと思い、ひどく残念な気持ちになった。
結局同じ店でビールを3杯飲み、また歩いて部屋に帰る事にした。この辺りは水場が近いせいか風が冷たく、酔いが一気に覚めてしまう。
途中、夜の9時近くになるというのに公園には子供達の声が聞こえ、4人くらいの小学生がすべり台でキャッキャと遊んでいた。
マンションに戻るとエントランスは全くひと気がなく、伽藍堂の中でクリスマスツリーだけが輝いてみえた。
僕はその辺の椅子に座り、しばらくその小さなイルミネーションを眺めながら、また昔好きだった彼女の事を思い出していた。
彼女とツリーを見た記憶なんてないのに、何故だかとても切ない気持ちになった。
クリスマスツリーもまた、誰と一緒に見るかによってその「感動」は、何倍にも何十倍にもなる。
もう少しアルコールが欲しくなり、マンション内のローソンでビールとつまみを買い、部屋へ帰る途中も住人の誰とも会うこともなかった。
部屋に戻るとバルコニーに出て、買ったばかりのコロナビールを一気に一本飲み干した。
部屋のオーディオデッキからはヤナーチェックの「シンフォニエッタ」が流れていたが、無性にあの曲が聞きたくなりスマホのYouTubeから探した曲をBluetoothでデッキへ飛ばした。
俊の頃は良かったよね・・
今日は久しぶりに彼女を思いだし、ひどく感傷的な気持ちになってしまった。やはり外出するべきではなかったのだ。
クリスマス色のレインボーブリッジも今はとても悲しく見える。
僕は今、「誰」とこの夜景を一緒に見たいのだろうか。