日本だけに住んでいたら分からない世界がある。
日本人とだけ話していたら分からない価値観がある。 そんなお話しの一つ。
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日本人的宗教観とは?
僕は海外の友達に日本を紹介する時、とても困る事がある。
東京の無難な名所を巡る時、買い物スポットや浅草寺、原宿辺りのサブカルチャーを見たついでには明治神宮も外せない。
浅草寺はお寺 ( 仏教 buddhism)
明治神宮は神社(神道 shintoism)
みんな喜んでくれるけど流れ的には必ず僕が何を信仰しているのか聞かれる。
慣れたものでこの話題になると決まって一応は「仏教徒(buddhist)」だと答える様にしている。
一応と言ったのは仏教徒で間違いでもなければ正確でもないからだ。
両親が亡くなって以降、初めて自分の家が代々、京都にある浄土真宗西本願寺(お西さん)の檀家だという事を知らされた。こう言っては何だけど、割とメジャーな宗派で戒律も厳しくないので法事の際は助かっている。
そう、正確に言うならば僕は「葬式仏教徒」という事になる。
先祖は供養したい。それには神道なり仏教なりに形だけでも入っていた方がいい。当然の様に親戚の手前、先祖から続いていた宗派を継承していく。
でも僕には正直、仏教だろうが神道だろうがどっちでもいいのだ。ただ父と母、先祖を供養したいだけであって。
日本では創価学会などや特定の宗教に入ってる人以外では、大体がこんな感じの宗教観なんじゃないだろうか?
特に若者や独身の人であれば尚更、自分の家がどの宗教、更には宗派なのかも知らないんじゃないだろうか。
だからこそ日本人は、
形だけ「お盆」(仏教)を
形だけ「初詣」(神道)を
形だけ「クリスマス」(キリスト教)を楽しめる。
形だけと言ったのは、きっとそこには「祈り」が入っていないからだ。
僕がそうだからといって、みんながそうだとは限らないが、例えば「初詣」に行ったらこんな感じですよ。
これは「祈り」というより「お願い事」だ。
神社(神道)に行ったからってイザナミやイザナギと対話なんてすることはない。
天照大神(アマテラスオオミカミ)に太陽の恵みを感謝した事だってもちろんない。
お寺(仏教)に行ったからといってブッタと対話もしないし、親鸞聖人に感謝した事だってない。(空海はスゴいと思うけど)
そう、日本人はお寺や神社に行ったからといって、そこに祀らている神様が誰なのか、ましてや対話をしようなんては思わないんじゃないだろうか。
しかし彼ら(外国人)は、自分の「神」と対話をしているのだ。
文化庁の統計によると日本人の宗教割合は、神道が約9000万人。
仏教の信者数が9000万人程いるらしい。
この2つだけで日本の総人口を軽く超えてるというよく分からない不思議(ノ)・ω・(ヾ)
しかし実際には日本人の7割程は僕と同じ「無宗教的感覚」であって、先祖の供養の時だけの「葬式仏教徒」or「葬式信徒」みたいな人が多いんじゃないだろうか。
だから僕は神社にも行くし、お寺にも行く、当然モンサンミッシェルで宿泊して礼拝堂でお祈りしても何の抵抗もない。
(モンサンミッシェルの宿泊記録も今度書きたい)
この感覚が外国の友人には理解できないらしい。
はて・・・
じゃあ逆に何で僕は、どこでも抵抗なく手を合わせる事が出来るのだろう?
外国人的宗教観とは?
答えを先に書くと、僕は特定の神と契約をしていないから、どんな宗教施設にも行って手を合わせる事ができるのだ。
普通の日本人からすると
そんな感じだろう。
しかし彼らは違う(外国人)
世界総人口の2人に1人が信仰しているキリスト教(ユダヤ教、イスラム教も含む)の場合、まず洗礼という聖水掛けの儀式を受ける。
すると晴れて神(GOD)との契約が結ばれる。
ここで言う「契約」とは、根底にあるのが絶対的な主従関係にある。
主従関係とは当然、神(GOD)が上であって絶対的な存在になる。
一旦「契約」を結べば他の「神」に祈るなんてとんでもない!!
キリスト教徒であれば、イスラム教のモスク、日本の神社で祈りを捧げるなんて事はまずない。
更に彼らは同じ宗教内であっても宗派が違えば異なる思想を持ち、超えられない壁もあるという。
一つ面白い?エピソードがある。
僕の結婚式に友人の彼(外国人)を招待した時の事。
仏教徒の僕が、教会で結婚式を挙げる事自体が奇異な目に映るのだろうが、そこは文化的な面を理解している彼は何も言わなかった。
しかしその後、別の機会に会った時に彼はふとこんな話をした。
「キリストが十字架に架けられていたので、賛美歌(hymn)の最中も祈れなかったんだよ、ごめんよ」
みたいな事を言っていた。
適当な僕はお得意の「never mind」(気にすんなよ)で返していたが、後でよくよく考えてみると、彼がプロテスタントだという事に気がついた。
カトリックとプロテスタントの違い
キリスト教にはカトリックとプロテスタントというと大きな二大宗派がある。
プロテスタントは基本的には偶像崇拝をするような事はしない。
神(ヤハウェ)やキリスト、マリア様を絵や像にして祈らないのだ。
っという事は、僕が結婚式を挙げた式場はカトリック様式という事なのだろう。
当人でさえ、そんな事を知ったのは後の事だ。これが一般的な日本人の感覚なんだろうと思う。
カトリック様式の方が華やかで飾りつけられ、奥にはキリスト像がある。
一方、プロテスタント様式だと十字架とオルガンだけというシンプルな事が多い。
少し豆知識を言うと、カトリック教徒は家族を持つとなぜか子供の数が多く、プロテスタント教徒は子供の数が少ない。
そのせいか分からないが、大学時代の友人の中でもプロテスタントの家族の方が裕福に(経済的余裕を)感じた。
経済的余裕があるという事は、必然的に子供の教育などにお金を掛ける事ができ、学力(学歴)が高い様に感じたが、これが教義的にどんな理由かはよく分からないし、僕の主観なのでデータがある訳ではないので悪しからず(ノ)・ω・(ヾ)
このように、同じキリスト教内でも宗派が違えば、彼らにとっては超えられないものがあるという。
一方、僕達日本人は当然の如くそんな事はお構いなしでしょう(僕基準)
曹洞宗や日蓮宗のお寺だからといって手を合わせないという事もないでしょう。
空海で有名な高野山の総本山金剛峯寺だって、僕は3回ほど行ったけど「真言宗」だったなんて今知ったばかりですから(ノ)・ω・(ヾ)
がっつりお願い事してますから・・
もしかして日本人は宗派の違いなんて、いや更に言うならば宗教の違いすら大して重要な事とは思ってないのかもしれない。
行きたい場所に行って拝む。
ある時、別の友人(外国人)にこんな事を言われた。
そして僕は・・
っと冗談を言っていたが、あながち冗談とも言えないなと後で思う。
それはつまり、一般的な日本人は結局のところ
1人の神と契約をしない
いや・・・、できないと言った方が正確かもしれない。
それは・・、次の章で考えてみたい。
日本人の神と、キリスト教の神
まず前提として僕達が思う「神」と、彼ら(外国人)の中にある「神」とはまるで意味合いが違う。
彼らの「神」は森羅万象、天地万物、全ての創造主であり唯一神の存在だ。
極端な話、別の「神」を許さない。
「私だけを信じるなら救ってやる、死んだ後はパラダイスだ!(天国行き)」
これに尽きる。
こういった他の「神」を許さない「唯一神」である事が、宗教、宗派の違いが民族間に隔たりを生み現在までの紛争、戦争の根源にある事は言うまでもない。
日本人の神々
一方我が国、日本はと言うと「唯一神」どころか「神」はそこら中にいる。
そう、日本人は伝統的に「八百万の神」(ヤオロズノカミ)という存在を身近に感じていた。
「八百万の神」とは諸説あるが意味合い的には800万の神でも強ち間違いでもない気がする。
古来より日本人は自然界だけではなく、身近な生活の中に「神」の存在を感じてきた。
そして日本人はどの「神様」も畏怖や崇拝というよりはどこか身近な存在として捉えてきた。
例えば、「お稲荷さん」であったり「大黒さん」、「あたごさん」「お西さん」
あぁ、こんな記事も書いていた。
更に言えば日本人は人間でさえ死して「神」として祀るという荒業をする。
靖国神社がいい例だが、この辺りも別の機会に取り上げられたらと思う。
そう、日本の「神」はもう数え上げたらキリがない。仏教伝来の神も神道から来る神も日本人は一緒くたに考えている節がありますよね(ノ)・ω・(ヾ)
例えそれがキリスト教やイスラム教であったとしても。
極端な話、キリストやムハンマド、アラーだって
ぐらいなもので彼ら(外国人)が唯一無二、唯一神として崇拝してる事は感覚的には分かっても、僕等にしたらいっぱいる神様の中の1人という程度なんだと思う。
そして日本人と彼ら(外国人)の「神」の意識の最大の違いは再度繰り返すが、契約をしていないという所だ。
日本人はどの「神」とも契約をしない。
だから、どの神社、お寺、教会、モスクに行っても自分の好きな様に祈り、神様を選ぶ事が出来るのかもしれない。
日本人が常識として自然に行なっている行動も、外国人の彼らにしてみたらひどく不思議な行動に映るという。
それは多分・・・
僕達、日本人の先祖が信仰という対立を避ける為に編み出してきた知恵なのかもしれない。
いい事言うねぇ~(=^・・^)ヾ(^^ ) ヨシヨシ
自分では意識しなくても、日本で生まれ育ち生活している日本人であれば、自然と身についてくる「宗教観」がある。
日本人が当たり前の様に持ってる常識や文化は、日本に住み日本人とだけ話していても中々気づく事は難しい。
普段僕達は、自分の中にある考え方や価値観の中で
「何が日本的な事なのか?」
「日本の文化ってそもそもなんなのか?」
そんな事を意識する人はあまりいないかもしれない。
友人(外国人)の視点がそれを気づかせてくれる。
日本人の「当たり前」は、彼らにとっての「なぜ?」になる。
彼らの「当たり前」は、日本人の「なぜ?」になる。
お互いの「当たり前」を知り尊重する事が、彼らの文化を理解する事であり、日本人自身の文化を内観する事につながるのかもしれない。
・・・っという長々としたお話し。
外国人はお守り大好き
なぜか彼らは神社やお寺に連れて行くと「お守り」を沢山買っていく。
そして僕と同じ様に社殿で手を合わせていく。
いつだか・・
と聞いたら、
っと言っていた。
イマイチよく分からない感覚だけど、多分それは、彼ら(外国人)なりに日本の文化を尊重してくれているという事なのだろう。
お守りは友達や家族が大喜びするらしい。
そう言えばキリシタンにとっての「お守り」といえばクロス(十字架)ぐらいしかないのかもしれない。
イスラムは偶像崇拝は禁止だったから、「お守り」すらないのだろう。
しかし日本の「お守り」はとにかく種類が多い。
代表的なもの以外でも更に細分化され、今やとんでもない種類のお守りが存在する。キティーちゃんとのコラボがあったり、もはやご利益(ごりやく)があるのかないのか・・・
~(=^・・^)ヾ(^^ ) ヨシヨシ
金運(Economic fortune)のお守りの事を説明したら、友達は喜んで何個も買っていた。
「お金」は宗教の違いを超えて、人間そのものの欲求の根源なのだろう。
そしてキティーちゃんのお守りを見て「ka・wa・ii、cute!」を連呼していた。
確かに安産祈願のお守りだって僕が見たって可愛いと思う。
人を思える人間になりたい
現実主義の僕からしたら、「お守り」を持っていたからって願いが叶うなんて事は絶対にないと思う。
人はどれだけ努力したって、ダメなものはダメだし、いい時には何をしてたってうまくいく。
だから常に努力をしなければいけない。
ただ「お守り」を身につけていたからって、願いが叶うなんていうのはあまりにも傲慢な考え方だ。
人生は、一人では頑張る事ができない、乗り越えられない様な事が沢山ある。
歳を重ねれば尚更だ。
誰にも相談できない事だって生きていれば必ずある。
日本人は伝統的に、日常生活の様々な物の中に「神」の存在を感じてきた。
「お守り」だって自分の努力を見守ってくれている「自分だけの神」だと思えばいい。
誰に認められなくても、結果ダメだったとしても「お守り」は、きっとその努力を見ていてくれる。
自分が頑張り続けられる様に・・
いつかその努力に納得した時、返納すればいい。
僕は今、ある人の無事を祈って「お守り」を持っている。
渡す事が出来ない相手だけど、それでも僕は大切に持って祈っている。
「お守り」にも色々な使い方があるんだと、この歳になって気づく。
本当は渡せたらいいのだけど・・
誰かの事を想い「お守り」を渡す。
誰かに想われ「お守り」をもらう。
日本人が昔から大切にしてきた心のこもった「神を宿す」贈り物なのだろう。
ブランド物や高級品を沢山あげるのもいいのかもしれない。
ただ大切な人をいっぱい作って、人に沢山の「お守り」をあげられる人になれたらと思う今日この頃であります🙏
宗教は面白い
今回は簡単に友達の視点からの「宗教」の違いを考えましたが、本当に「宗教」は面白い!!
キリストやイスラム圏の人達のアイデンティティの根源にあるのが宗教的思想であったり道徳なのは間違いない。
彼らが本当は何を考えているのかを知るには、彼らの宗教の歴史、思想をよく知る必要がある。
そして、それらが理解できてくると途端に欧米の文化、映画、ミュージカル、音楽などの理解も深まる。
(海外の映画館などに行っても、言葉は理解できても日本人だけ理解できない表現も、彼らにとっては日常的な宗教的な表現だったりする事も多々ある)
では日本人のアイデンティティーの根底には何があるのか??
そんな事も考えていけたらなぁ(ノ)・ω・(ヾ)
おわり