2018年2月1日
胡蝶の夢

もし、「 胡蝶」という検索キーワードでこのページに辿りついた方がいましたら、全く為にならない個人的な思考なので、そっ閉じが賢明です。宜しくお願いします🙇

ただただ僕自身が、この言葉が大好きであり、まさに「 お気に入り」であって、それに対する僕なりの解釈のページです。
暇つぶしにもなりません(。・ω・。)

「 胡蝶の夢」とは・・

「胡蝶の夢」とは、古代中国の思想家「荘子」(そうじ)が説いた説話の一説です。

(※ちなみに「荘子」(B.C369~B.C286頃)は、現在の河南省商丘あるいは安徽省蒙城に生まれた思想家で、道教の始祖とされる人物です。)

胡蝶の夢
その昔、荘子が夢の中で蝶(胡蝶)となり、野原を飛び回ります。自由で楽しく飛び回っていると、次の一瞬、覚醒し目覚めます。そこには紛れも無く自分(荘子)がそこにいます。
しかし荘子は「はたして自分が夢で蝶になって遊んでいたのか、それとも今この瞬間が夢で本当の自分が蝶なのか?」

 

この説話は、夢と現実の区別がつかない(つけない)、また善悪、彼我、是非を始めとした区別は絶対的なものではないという荘子の思想を象徴する説話になります。

いつか荘子の本も「僕の読書感想」として、まとめてみたいと思っていたのですが、僕は荘子の思想も好きで、さらにこの説話もなぜか心魅かれる・・
とてもロマンティックであり、この絶対的な区別のない無為自然な境地の憧れがあります。

まぁ、荘子の読書感想はいつか書くとして、「胡蝶の夢」をさらに膨らましていきたいと思います。
荘子胡蝶の夢

「胡蝶の夢」を想う

人生とは、儚くて寂しくてほんの一瞬のきらめきの様なものです。
とても「 うつろいやすく」、次に目覚めた瞬間にどうなっているのかさえ保証がありません。

バカバカしいと思うかもしれないですが、明日の朝、目覚めたらまた僕自身でいる保証なんてどこにあるんでしょうか?
例えば今夜、僕が眠りについて、夢の中にいる間に、隕石の落下で一瞬の間に僕の体が蒸発したとします。
その時、僕の意識は一体どこにいってしまうのでしょうか?

現実的(客観的)に見れば、僕は「 死んだ」という事になりますが、科学的に厳密に言えば、僕はまだ存在しています。
僕を構成していた物質は蒸発して消えているようで、炭素、二酸化炭素、窒素などんに変化しているだけです。

その原子(粒子)が宙を舞い、温められ上空で雲になり、冷えて雨となり大海に落ち、プランクトンを構成する一部になり、再び僕が意識を取り戻した時には、大海を泳ぐマグロになって大海原を自由に泳ぎまわっています。

ある時、人間に捕まり、売りものとされるも、売れずに腐り、捨てられ、植物の栄養になり、その植物もまた人間に刈られ、干し草にされ、動物の栄養となり、その動物を人間の母親が食べ、気づいた時には、また僕は別な人間として意識が覚醒します。

輪廻

「 あぁ、随分長い夢をみたなぁ(ゝ_ξ) ゴシゴシ 」

幼少の僕は、そんな夢うつつの中で、またしばらくの間、人間として夢と現実の中を行ったり来たりを繰り返す毎日を送ります。

一体、どこからが夢で、どこまでが現実なのか・・・

もちろんこれは、「 胡蝶の夢」から派生した僕の妄想ですが、感のいい方なら直ぐに気づくと思います。
「 何だ、輪廻転生みたいなもんじゃないか・・」

輪廻転生とは?

輪廻転生とは、ざっくりと言えば主に東洋思想(仏教やインド哲学、ヒンドゥー教)などで語られる
「 人間は死んだ後、魂(霊魂)は、何度でも生まれ変わりをする」そのような思想の事を輪廻転生と呼びます。

輪廻転生では、人間という個が次々に「 生と死」を繰り返しますが、僕が受ける「 胡蝶の夢」は、もっと虚ろな、もっと時間的にも物質的にも不確実な、意識のうつろいの様なものを感じてしまうんですよね。

今、この瞬間は現実なのか、夢の中なのか、もしくは全く知らない誰かの夢の中なのか?
本当に自分は存在しているのか?
元々、はっきりと自分が確実にここに存在しているなんていえるのでしょうか?
多分、世界中を探しても誰もその事を証明できる人はいないと思います。

一つ言えるとしたら、デカルトの「 我思う、故に我あり」に行き着いてしまうんじゃないでしょうか?

簡単に言うと、僕が存在しているという証拠は、「 僕が存在しているか理由を考えている僕がいるから」という事。
世界中(宇宙)の全ての存在を疑っても、今僕が考えているという事は疑いようがないという事です。

って💦

とんち話かいっヾ(・ω・o) ォィォィ

しかも、デカルトはまた、ちゃんとした機会に記事にまとめたいと思ってたのに、すぐに話しがそれてしまう(;´Д`A 

結局、何が言いたいの??

そうです☝️  また「 胡蝶の夢」に戻りますと、結局、僕自身という存在(意識)さえも、宇宙サイズで考えれば、蝶だろうが、僕だろうが、猫だろが、次の瞬間(夢から醒めた時)には、どう入れ替わっていても、夢の前の自分(存在)を忘れ、現在のそれを受け入れていかなければいけない。僕たちはそんな虚ろい存在でしかないと思うのです。

んっ? 最近では「君の名は(2017年、放映」で、
「入れ替わり」をテーマにした日本アニメ映画がありましたね(・ω・)b

「 現在がとても幸せで満たされていても、ある瞬間をさかえに不幸に転落する」 これは現実世界でも日常茶飯事に起こる事です。
これだって、別の意味では「 胡蝶の夢」。

もしこの「 胡蝶の夢」を昇華して考えていった時、
もし誰かが不幸になっていたら、いつ自分がその立場になるかもしれないと、手を差し伸べるという事は、相手を助けるという事でもあり、同時に自分自身も助けられたという考え方ができる様になります。

「 胡蝶の夢」から何を学ぶか・・

先に述べた様に、「 胡蝶の夢」は「 荘子の思想」を語る上で代表的なエピソードの一つです。
このエピソードの中で荘子が訴えているのは、「無為自然」、「一切斉同」という境地です。

簡単に言うと☝
夢だろが現実だろうが、どちらが真実の姿だろうが、そんな事は問題ではなく、そのいずれも真実であり、己であることに変わりはなく、どちらが自分の世界(立場)であるかを論ずるよりも、いずれをも肯定して受け容れ、それぞれの場で満足して生きればいいという事です。

 

さらに荘子は、
「是と非(正しい事や間違ってい事)、生や死、大と小、美しさや醜くさ」などの現実では相対している様に見えるものは、人間の「知」が生み出した結果であって、荘子はそれを「ただの見せかけに過ぎない」と言っています。

「知」には何ら確かな判断はないのだから、考えたところで仕方がない。知の判断から離れてみれば、差別や偏見や区別を超えた世界が見えてきます。
その境地に達すれば自然と融和して自由な生き方ができると荘子は教えてくれています。

「 胡蝶の夢」から考える「 死生観」

死生観とは誰に教えられるものでもありません。
幼い頃、誰しもが「 死んだらどうなるんだろう?」と考えた事があると思います。
答えの出ない問題に、いつしか考えるのをやめて、ただ漠然とした「 死=不安や恐怖だけの対象」になっていきます。

しかし、「 胡蝶の夢」を思う時、「 夢と現実」を区別しない様に、「 死と現実(存在)」すらも区別しない、ただ全てを受け入れ、「 死とは、ただ今の体の消滅(変化)であって、この大宇宙において僕という本質はかわらずに、続いていくもの・・」
輪廻
早くに亡くした両親、可愛かったペット、短い人間としての一生で、「縁」あって知り合い優しくしてくれた人、全てがまた混ざりあい、永遠という時間の中でまた巡り会う事ができる・・

そういう考え方ができると、「 死」というものに対して全くの恐怖心がなくなります。
(だからといって、理不尽に殺されたり、苦しんでは死にたくはないというのは、「 ひとのじょう」と書いて人情ですが(ノ)・ω・(ヾ)

この万物が絶え間なく変化し続けるこの世界、また虚ろで無情なこの世界に、こうして意思をもって生まれてこれた事、その中で自分なりの幸せを見つけ、同時に人を助け幸せにする事が自分を幸せにできるという事を、この「 胡蝶の夢」、そして「 荘子の思想」が教えてれているんではないかと僕は思います。

 

っとまあ、こうありたいという僕なりの理想を書いたのですが、まぎれもなく生きているのはこの現実☝

僕は胡蝶でもなければ夢でもない(・ω・)b
そんな胡蝶みたいに「 ふわふわっ」とは生きられない(ノ)・ω・(ヾ)

「ふわふわ?」

  「ふわふわ??」

いや、現実だって胡蝶の様に「ふわふわ」でいいじゃないか(*・ω・)ノ

常識やしがらみや規則だって人間が生み出した「知」の1つ☝
大いなる宇宙、この地球の大自然の営みと比べればどれほど小さい事か・・

なるべく人に迷惑をかけず、
意味のない事で悩むくらいなら逃げ出せばよし(・ω・)b
休みたければ、いくらだって休めばいい(`・ω・´)

胡蝶の様に「ふわふわ」と自由に楽しく飛んでいれば、
いつしか「ふっ」となにか違う本当の自分に目覚めるかもしれませんね・・

そんな感じで締めくくりたいと思います🙇

ちなみに
「 死生観」なんて言葉をだすと、何か宗教めいた香りがしてきますが、僕自身は特定の宗教に属しておらず(先祖からくるポピュラーな宗派には属しているそうですが・・)、他宗教を否定するつもりは、全くないのでご了承下さい🙇

『胡蝶の夢の夢』: 行き先1901年

【電子書籍】[ 司馬遼太郎 ]
「 胡蝶の夢」を知り、死生観を思う

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