9月の中旬に伊豆に一週間遊びにいったのだが、スマホとパソコンは自宅に置いていった。
忘れた訳ではなく意図的に置いていったのだ。
僕は元々スマホ依存症じゃないから、外出先でネット接続する事もほとんどないし、ましてや基本的にYouTubeやゲームもしないから全然苦にはならない。
しかしスマホを持っていると〝依存症〟ではないにしても、どうしても意味もなく天気予報を見たり、マーケット情報を覗いたり、メールチャックやらLINEの返信を考えたりしてしまう。
頻度は少ないにしても、遊びに行ってまでそんな事に縛られる位なら、持ち歩かなければいいと、年に数回は旅行中や遊びにスマホもPCも断捨離するようにしている。
ただ断捨離といっても当然捨てるわけではなく、スマホやPCの存在を消し、執着や依存度を薄めているだけなのだが・・
当たり前の話だが、実際スマホやPCがなくても何て事はないし、どうにでもなるのだ。
迷ったら人に聞けばいいし、スマート決済ができなくても20万くらい現金で持っていればなんとでもなる。 先の天気が分からなくたって空模様と気分で行動すればいいだけ。やる事がなくなれば「ぼ〜〜」っとしてればいい。
「検索」なんかしなくたって人間は生きていけるのだ。
スマホに振り回される人達は、暇さえあれば画面をのぞき、自分の人生とは全く関係のないトピックスや芸能ニュース… 今ならどうでもいいコロナや皇室の話題・陰謀論のリンクを一喜一憂しながら歩き回り無駄な時間を過ごしている様に思う。
「実はこうなんだ。本当は… 裏で…」
暇を持て余してるつもりなのかもしれないが、そうやって不必要な知識や観念に触れれば触れるほど、人生はより複雑で困難なものになる。
話は変わるが、つい先日ディズニーシーに行った時、現在はコロナ中で人数制限がされてる為さほど待ち時間がないはずなのだが、前に並んでいた30代と思われる夫婦はスマホゲームに熱中、子供2人もスイッチで対戦をしているらしく乗車するまで一言も会話を交わしてる風でもなく、あげく男親の方が乗車時にスマホを注意されて最後までイライラしている様子を見ていた。
それぞれの家族の形があり、何が正解で不正解という事もなく、あの瞬間だけでは判断はできないが、果たしてあの家族は共に時間は過ごしたかもしれないが「思い出」を残す事ができたのだろうか・・
一緒に過ごした時間を計る事は誰にでもできるが、その「時」の深さは、長い時間をかけ記憶が「思い出」に変わった時、初めてその時間を愛おしく大切に思う事ができるのだ。
そこにスマホは一切必要ない。
全てを写真に収められなくても、大切な瞬間は「思い出」として死ぬまで消える事はない。
忙しい現代では、効率的やら時短などの言葉がもてはやされ〝暇や合間が悪い〟ものと捉えられがちだが、時間を有効に使ってると思ってる人ほど時間に追われ、いつもいつもスマホと睨めっこをして忙しそうに見える。
そうして同じ時間を過ごしているのにもかかわらず、大切な人の顔色さえ分からなくっていく。
生きてるかも分からない老後や先の事ばかりを考えて、そこから逆算し今なすべき事を設計するという生き方は今を見失ってしまう。
スマホやPCに依存してくると、そういった方向に思考が向いてしまいがちになってしまうが、そういった時ほど、スマホやPCへの「執着」を捨てゆっくり休む事に努めると、自らの内観もでき自分にとって大切なものが何か気づく事もある。
楽勝だよ