僕の大好き作家の一人です。村上春樹書は全て読み終わったんですが、読書感想の為また軽く読み返したいと思います。
簡単なプロフィール
1949(昭和24)年、京都府生れ。すぐに兵庫県に転居。
神戸高校を経て早稲田大第一文学部に入学。学生時代にジャズ喫茶を開き、陽子夫人と結婚。同大演劇科を卒業した後、1979年にデビュー作「風の歌を聴け」で群像新人文学賞を受賞した。「羊をめぐる冒険」で野間文芸新人賞。1987年、「ノルウェーの森」がベストセラーに。この作品の単行本、文庫本を合わせた発行部数は1000万部を超えている。
90年代以降は「ねじまき鳥クロニクル」「スプートニクの恋人」「海辺のカフカ」などの長編小説のほか、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめた「アンダーグラウンド」も発表。2009年に刊行された長編「1Q84」は爆発的なヒットとなり、シリーズ3巻がそれぞれミリオンセラーを記録した。影響を受けた米国文学の翻訳も数多く手掛け、主な訳書に「グレート・ギャッツビー」「キャッチャー・イン・ザ・ライ」などがある。海外での評価も高く、フランツ・カフカ賞、エルサレム賞、カタルーニャ国際賞などを受賞。米プリンストン大からは名誉博士号を授与された。
僕が最初に村上春樹の本に出会ったのは小学生の頃、「ノルウェイの森」を読んだのが最初でした。
当時、僕は「Sheldon,Sidney」や海外の作家がメインで、まだ社会性のない僕は小説といってもストーリーを楽しむぐらいしかできず、小説の裏にあるテーマやメタファーなどカケラも分かりません。
当然、「ノルウェイの森」もまったく意味が分からず、「自殺」やら「死」やら「孤独」やら、ましてや色恋すら分からない僕には最後まで読む事すらできませんでした。
ところが、23才の頃ひょんな事からまた「ノルウェイの森」を読んだ時、言葉、フレーズの一つ一つに身震いがしたのを覚えてます。
別に僕が、それ程「喪失感」や「孤独」を感じていた訳ではありません。
恋人との別れは経験していても、友達もいっぱいいたし、生活も充実していました。
それでも、どこか・・
どこかが共感したんですね。
今まで何百冊と本を読んでいてもなかなかない経験でした。
それ以来、村上春樹の作品はすべて読んでいます
回転木馬のデッドヒート 短編小説(1985年)
- レーダーホーゼン
- タクシーに乗った男
- プールサイド
- 今は亡き女王の為に
- 嘔吐1979
- 雨やどり
- 野球場
- ハンティングナイフ
不思議な事があります。
ぼくは、いろんな作家さんの短編小説を読みますが、そのほとんどが読み終わった後、そこまでの感想もなく読み終わり、記憶にも残っていきません。
多分、長編小説であれば、それなりの時間をかけ、感情移入もあり、ストーリーの面白さなどで漠然とは記憶にも残るのですが、短編小説だと、そこに至る前に終わってしまうのです。
ところが、村上春樹の短編小説は、どうも心にひっかかるのです。
この短編小説「回転木馬のデッド・ヒート」もそうです。
別に面白い訳でもなく(スイマセン🙇)、共感できる訳でもないのですが、何故か何年たってもタイトルを見れば、どんな内容か思い出す事ができます。
うまくいえませんが、そこがまた村上春樹のスゴイとこなのかもしれません。
「はじめに」で著者自身が小説を書くにあたっての小説感を語っています。
自己表現が精神の解放に寄与するという考えは迷信であり、神話である。
自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。
我々は人生の運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身をも規定している。それはメリーゴーランドによくにている。
降りる事もできないし乗り換える事もできない。
誰をも抜かないし、誰にも抜かれない。
我々はそんな回転木馬の上で仮想の敵に向けて戦慄なデッド・ヒートを繰り広げているように見える。我々が意思と称するある種の力はその発生と同時に失われてしまっているのに、それを認める事ができずに、その空白が人生の様々な位相に奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ。
印象的なフレーズ
- 彼は既に性的に熟していたのである。
彼は33歳にして、24歳の女が求めて いるものを過不足なくきちんと与えられるようになっていたのである - 彼女はそういう感情的な訓練を受けていなかったんです
- 僕はその昔、セックスが山火事みたい に無料だった頃のことを思い出した。本当にそれは、山火事みたいに無料だったのだ
ノルウェイの森 (1987年)
ノルウェイの森(上) [ 村上春樹 ] |
ノルウェイの森(下) [ 村上春樹 ] |
37歳の僕は、ドイツの空港で飛行機の着陸後、機内での待機中、ビートルズの名曲「ノルウェーの森」を耳にし、その曲をきっかけに学生時代の自分とその周囲に起こった出来事を思い出し、混乱し、そんな回想からストーリーが始まる。
高校時代に親友のキズキが自殺する。直前まで一緒にいた僕は、何の前触れもなかった唯一の親友の死に心に傷を負い、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」という死生感に達する。
東京の大学に進んだ僕は、偶然キズキのかつての恋人、直子に再会する。
直子は未だにキズキの死に向き合えられずにいるが、それでも僕との交際が始まった。
しかしキズキの死に魅入られた直子も自殺。
親しい友人、恋人にも先立たれ、絶望しながらも生きることを選んだ主人公。
最後に主人公が電話ボックスからかける電話も余韻を残す印象的な終わり方だと思います。
ざっくりストーリーでしたが、途中にでてくる登場人物もみんなキーパーソンであり、重要な要素を持っています。(緑、レイコ、永沢、ハツミ、突撃隊)
「ノルウェイの森」から感じるのは終始、「孤独」と「喪失感」であり、普段は感じない「死」が傍にあります。
それは普通の小説での「死」はストーリーの中にある事件や事故や殺意による死が多いが、
「この小説の「死」は、漠然とした不安や、心のどこかにある「喪失感」が死に近づけてしまう。
このストーリーの時代設定は高度経済成長の1970年代、日本全体が物質的には豊かになりつつある時期だが、それとは引き換えに手に入れる「喪失感」。
現在、韓国や経済成長著しい中国でも「ノルウェイの森」がベストセラーになっているのは、この小説に内蔵するテーマが普遍的なテーマだからではないでしょうか。
僕が、それが何であるか思いあったのは12、13年あとの事だった。
僕はメキシコ、サンタフェで奇蹟の様に美しい夕陽を眺めていた。世界中の全てが赤く染まっていた。そんな圧倒的な夕暮れの中で、僕は急にハツミさんの事を思い出した。
そして、その時彼女がもたらした心の震えがいったい何であったかを理解した。それは充たされる事のなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであったのだ。ハツミさんが揺り動かしたのは僕の中に長い間眠っていた「 僕自身の一部」であったのだ。
そして、それに気づいた時、僕は殆ど泣きだしてしまいそうな哀しみを覚えた。彼女は本当に本当に特別な女性だったのだ。誰かがなんとしてでも彼女を救うべきだったのだ。
ハツミさんは、多くの僕の知り合いがそうしたように、人生のある段階が来ると、ふと思いついたみたいに自らの命を絶った。
永沢の手紙「 ハツミの死によって、何かが消えてしまったし、それは哀しく辛いことだ。この僕にとってさえも」僕はその手紙を破り捨て、もう二度と彼には手紙を書く事がなかった。